ーーー同世代の方々へーーー

 「昭和30年代生まれの人、手を上げて」…と言われて、思わずPCの前で
 手を上げてしまうアナタ!…それこそS.30年代生まれの顕著な条件反射的反応です。
 なぜこうも幼児性を残したまま、ひとの親、イッパシの社会人になってしまったのか、
 それはアナタの責任ではありません。我々S.30年代生まれが、
 そのセイシュン時代を過ごしてきた時代背景に起因するのです。(ホントかぁ〜〜?)

 我々のセイシュン時代は、高度成長期真っ只中、消費は美徳、JAPAN as No.1などと
 日本中で浮かれていた時代です。脳ミソがまだ充分成熟しきってない
 あどけない(アホな)少年少女たちは
 「あぁ〜〜、そうなのかぁ〜〜〜。」と完全に勘違いし、ご苦労無しの「あいでんててぃ」
 を植え付けられてしまいました。だ・か・ら、S.30年代生まれのシトビトは
 皆、潜在的幼児性持続症候群なのです。(んなこた〜ねーだろー!)

 70年代・・・なんてノスタルジックな響きやろ〜〜〜(゚-゚)
 我々が一番多感な頃を生きた1970年代…。
 その時のちょっとこっぱずかしい思い出を共有できるアナタへ…。

 というわけで、昭和30年代生まれ限定、えこひいきのページでございます。
 


このあたりから70’s は始まった・・・・・




まったく、思いつきで苦し紛れに思いついたこの企画・・・
ボツになりそうです。。。(^o^)

というのも、あんなこと、こんなこと、ありましたよね〜
程度に郷愁を込めて語ろーと思ったのですが
まったく膨らみません。m(__)m

あまりにも重い70年代の時代背景のぷれっしゃーと
同世代の方々に対する責任に負けてしまいました。

なんのこっちゃ。。。。

もちょっと、練りまして、するどくエグちゃう企画に
なるまで、・・・お待ちいただけます〜〜ぅ?。。。(_ _;) 

という事で、引続き工事中



・・・・2002/6/12

と言いつつ既に半年。。。m(..)m

このままではいかん!何とか繋げなければと苦しんでいたところへ
こんなメールを頂戴しました。
つなぎとさせて頂きます。




 面白い考察ですね!
考察も面白いのですが、ふと気付けば文脈・文体もネットワーク上で見掛けると
世代毎に雰囲気が違い、正しく昭和30年代生まれの文体の様ですね。
そして、「昭和」と「西暦」が違和感なく同じ文に同居しているのもこの世代なの
かも知れません。そしてそして、違和感を感じないのは「昭和30年代生まれ」だけ
なのかも知れません。(他の世代の人はどう感じるかは思いもよりませんが...)
 どう考えても「昭和30年代」と「70"」くらいしかこの表現・文脈・文体を
同居させる人は居ない様です。

 そして更に「あいでんててぃ」という表現を好んで使うのは、この世代の人か、
本当にエゲレスゴを理解している人くらいしかいない様です。当時のエゲレスゴの
どの先生も「あいでんててぃ」は「日本には無い概念」と呪文の様に言っていたの
を思い出しています。因みに今のエゲレスゴを話せる人や、海外からの留学生でも
「あいでんててぃ」という言葉を全く使わない・忘れた・知らない人が無数に存在
するのも面白い現象です。もしかしたら当時の先生方からの「だからエゲレスゴは
難しい」というメッセージだったのかも知れません。(迷惑なメッセージ...?)
 そう言えば「修学旅行の時、外国人が居ると真っ先に居なくなるのは英語の先生」
というのは、世間から耳にタコができる程に見聞きさせられた様な...

 ○○市から、ホームページのデザインやアイデアを探しに来たI・Pです。
カタカナ・エイゴには抵抗感はそれ程なく、辞書さえ有れば読めるけれども、
「話せない」「書けない」、そういう同世代の人です。
エイゴ教育が進んでいて、それでもカタカナの無い直訳漢字だけの中国が、世界の
生産の拠点になるのは人口のせいばかりでもないのかな?
 ではまた覗きにきます。


というわけでI・Pさんありがとうございました。
今後、皆様からこのようなご意見待ってます!


メールはこちら


何故、BBSにしないのか?については・・・
今ちょっと忙しくって管理に自信が無いから。(^v^)



・・・・2003/2/27

驚いたことに、、、このページの存在忘れてました・・・自分で。。

最近、戴いたメールです。(どっぷり、70’sロック編)

掲載許可、頂きました。(ありがとうございます)


私は昭和29年生まれです。
好きなジャンルはブリテッシュ。
フェバリットはセカンドまでのツェッペリン、テンイターズアフター
フリー、ハンブルパイ等。
時代的にはサイケデリック〜グラム頃までが一番好きです。
志田さんとは同世代とまではいかないかもしれませんが
「あの時代に多感な時期を過ごした」人間として相通ずる部分が多く
あるものと思っております。

--
2003/02/25

高校3年の夏(71年)あの第3回中津川フォークジャンボリーに
友達とバイクで行ってきました。
その興奮が冷め遣らぬうちに、「青春の思い出」を作るため
約10日後あの「三里塚幻野祭」に一人でまたバイクでいってきました。
野外ロックコンサート初体験のせいもありましたが私の多くもないコンサート暦
の中でこの二つはやはり思い出深いものがあります。
特に三里塚は不良の音楽と言われたロックのイメージを具現化した世界でした
思い出の断片ですが三上寛、頭脳警察、ブルースクリエーション、ロストアラーフ
DEW。各セクトのアジテーション、ラリッたネエチャンによる静画ではない
動くヌードグラビア、「右翼の殴り込みだ!」という怪情報等。
17歳の青年には刺激的な「夏の日の思い出」となりました。

では、またメールします。

--
2003/02/27

社会人になった1年目の12月31日の夜、私は当時の「特急とき」で東京にいきま
した。その頃の会社は大晦日も午後5時まで仕事でした。
新幹線はなく4時間近くもかかって東京には午後9時近くに着きました。
渋谷パルコの周辺ではお祭り騒ぎで、今もいますが針金細工のネームを作る
フーテン、ヒッピー(死語)崩れの人が路上で商売をしており私は新潟銘酒1カップを代替に
田舎では珍しいアクセサリーを作ってもらいました。
そんな時、一人の同年代と思われる男が私に声をかけてきました。
ここからドラマは始まります。
「おい!俺はこれからここのコンサートを見に行くが俺と行けば関係者扱いで只で見
れる俺は今売り出し中のキャロルの知り合いだ」
そんな彼について「関係者用」のエレベーターに乗りパルコ最上階の「西武劇場」に
向かいました。
キャロルの親衛隊はクールズ(館ひろしボス)でしたが知っている人は知っていると
思いますが初期の親衛隊は青山の「摩訶男」(クールスの前身)俳優の岩城晃一
(ジャワカレー)がリーダーで、パルコの路上には、しっかり年代物のチョッパーが
数台横付けられていた

--
2003/03/07

関係者用のエレベーターは広く明らかに業界人と思われる人が
乗っており、その中にはアンアンで見たその頃の新職業「スタイリスト」
の走り「高橋靖子(だと思うが)」がいた。
黒のマキシコート。襟にストーンズの「ベロマーク」のバッジをつけて。
田舎人はこんな程度でも「ああ‥東京だな‥」と深く感激したことを
覚えてる。
西武劇場に入りましたが11時から第一部は開演とのことで売り子の
ねえちゃんしかおらず、観客は無人。
ステージ近くでは、ミキサーチェックが入念に行われていた。
彼はYと名乗り大手の洋酒メーカーが経営しているパブのバーテンとの
ことだった。「おい!お前酒もっていただろう俺にくれよ」
当然のように彼は言い、売店から買ったサンドイッチをつまみに飲み始めた
私も彼が買ってくれたサンドイッチをつまみに最後の酒を飲み始めましたが
なんと田舎では見たこともない「ツナ(シーチキン)サンド」と日本酒は
意外と合って新しい発見だった。
そのうちにステージでは、バンドリハーサルが開始された。
「きゃー私このバンドの大ファンなのよ!」突然、傍らの売り子のねえちゃんが
叫んだ。なんとキャロルではないか。
カンフーファイターのようなジョニー大倉、寡黙で母性本能をくすぐるタイプの
内海利勝、タイコはこの当時ユウ岡崎だったのだろうか相川誠でないことは確か
だが。トラのドラムかもしれない。
そして、すでに「御大」の風格のあった、いきがった、なまいきな、強面の
「矢沢永吉」。「俺たち3人」は最前列近くでリハ中のキャロルを見た。
まるで、プレミアムショーを見ているかのように。リハ中からキャロルはビンビン
に乗り、すごいロックンロールだった。
キャロルのリハが終ると開演まであと1時間を切っていた。
その時、売店のねえちゃんが「ところで、私はバイトだけどあんたたち誰?
コンサート関係者はこんな所にはいないはずよ」
私は「いやー彼がキャロルの知り合いだから、なぁ」と彼に言った。
それに対し、彼は「ああ‥いやぁ‥」歯切れの悪い返事が返ってきた。
ここから雲行きは悪くなってきた。



たぶん続くと思います。乞うご期待!



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